保元の乱で後鳥羽天皇が勝利すると、天皇の祖金であった信西(藤原通憲)が権勢をふるうになるのだが、朝廷の間では、後白河天皇が譲位し院政を求める一派と、鳥羽上皇の妃だった美福門院(藤原得子(なりこ))の養子、守仁親王(後の二条天皇)を天皇とし親政を求める一派との対立が起こるのである。
さらに後白河天皇派が、信西と藤原信頼とに分裂をする。
藤原信頼と美福門院とが信西を排除することで手を結び、信西追放の狼煙をあげたのが、平治の乱である。
平治の乱では、藤原信頼側に源義朝が、信西側に平清盛が付くという構図となった。
保元の乱を共に戦った、源氏と平氏の棟梁が袂を分かちあったのである。
この要因は、信西が平清盛を重用し、保元の乱で主戦場で戦った源義朝が疎んじられたことに不満を抱いたことによる戦だったとも云われている。
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