保元の乱は兄と弟、父と子、叔父と甥とが敵味方に分かれ相争った戦である。
その起こりは、鳥羽天皇の第一子の崇徳上皇と、四男の後鳥羽天皇の権力争いに、摂関家の藤原頼長と弟の忠道との家督争いが絡み、そこに武士を巻き込んで起こった戦である。

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崇徳上皇に藤原頼長が付き、後鳥羽天皇に頼長の弟、忠道が付き、そこに武士集団が加わるのだが、崇徳上皇側に、源氏は源為義に四男から九男の子が従うのだが、長男の源義朝は、後白河天皇側に付く。
ちなみに八男が弓に聞こえた源為朝である。
平氏は、平忠正とその一族が崇徳上皇側に付くのだが、甥の平清盛が後鳥羽天皇側に付いている。

02積善院mid
保元の乱はわずか一日で終わり、崇徳上皇側が敗れるのだが、その戦後処理に当たったのが信西(藤原通憲(みちのり))である。
信西は、藤原頼長の子や藤原教長の貴族や源為義、平忠正、平家弘などを糾弾し、とくに武士に対して、薬子の乱(810年)以来、数百年ぶりとなる処刑を復活させたのである。
源為朝による源為義の除名嘆願も聞き入れられず、船岡山で一族郎党斬首されるのである。、
唯一、八男の源為朝のみ逃亡するも、近江国で捕らえられ伊豆大島に配流されるが、国司に従わず追討を受け自害して果てるのである。
平忠正もまた一族斬首されている。
保元の乱は弟が兄を、子が父を、甥が叔父をと骨肉相争う血みどろな戦いだったのである。
保元の乱の後、政権を握った信西は、先陣をきった源義朝より平清盛を重用し、これに不満をもった源義朝が「平治の乱」を起こすことになるのである。