幕末に土佐の志士たちに大きな影響を及ぼしたのが、河田小龍である。よさこい節にも歌われた「はりまや橋」の近く、浦戸片町水天宮下(現・南はりまや町)で生まれている。
JR高知駅から、とさでん交通の路面電車に乗り、「はりまや橋」で降りるとすぐである。

河田小龍は画家といわれるが、様々な分野で深い知識を有し、多くの人と交わりを持つのだが、特に、土佐藩参政の吉田東洋、ジョン万次郎こと中浜万次郎、そして坂本龍馬にも深い影響を与えるのである。
小龍と吉田東洋との出会いははっきりとしないのだが、画家を目指した20才の小龍が、東洋に従い京に遊学し、狩野派の可能永岳と南画家の中林竹洞に師事し、絵画の修行をするのである。
その時に二条城の襖絵の修復に携わっている。

画家として土佐に帰った小龍は、幡多郡中浜村(現・土佐清水氏)の漁師だった中浜万次郎(ジョン万次郎)が、漂流と米国での生活から、嘉永5年(1852)に土佐へ帰国すると、その取り調べに当るのである。
小龍は万次郎を自宅に泊め、万次郎から聞ききした米国のことを「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」として纏めたのである。

その万次郎の話を、親交があった藩御用医師・岡上樹庵の妻が龍馬の姉・乙女だったことから、日本の海防や外国船を買い入れて貿易によって、事業を起こすことを龍馬に説いたのである。
小龍は明治維新を迎えた後、琵琶湖疏水の建設にも関わり、明治31年(1898)12月に、75才で亡くなっている。

誕生地の碑文には、
石碑には『名は維鶴、別号、小梁、幡山など、文政七年土生玉助・礼子の長男として、旧浦戸町片町(南方30m)に生。
画は島木蘭渓、儒を岡本寧浦、京に上り狩野永岳、中村竹洞、長崎の木下逸雲に学び、南北合派を修得、蘭学画事を土佐に伝えた。嘉永五年、米国から帰郷した中浜万次郎と、ここで寝食を共にし「漂撰紀略」を著し、日本の開国に益した。
のち築屋敷の仮寓先で、青年坂本龍馬に世界の情勢を語り、洋船操縦技術習得の急務を述べ、後に亀山社中土佐海援隊で活躍した、長岡謙吉、近藤長次郎、新宮馬之助らは小龍の弟子である。
この地は膨大な画人や志士達に新思想を鼓吹啓蒙した記念すべき土地である。ここに、この碑を残し、永く後世に伝わらんことを願望する。』
出典:【河田小龍生誕地・墨雲洞跡の碑文】より
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