東三条殿は平安京の二条大路南、西洞院大路東(現在の中京区押小路通釜座西北角)に建てられた、藤原兼家の邸宅で、娘の藤原詮子(ふじわらのせんし/あきこ:64代円融天皇の女御で、一条天皇の母)の里第であった。

01東三条院趾mid
保元の乱では、後白河天皇側の拠点となり、平清盛や源義朝らの武士が集まり、ここから崇徳上皇らが籠る白河北殿に夜襲をかけるのである。
押小路通を釜座通まで歩くと、その角に「東三条院址(とうさんじょういんし)」の石碑が建つ。
駒札によると、
『東三条院の址はこの辺りを中心として二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130メートル、南北約280メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。
はじめ醍醐天皇皇子重明(しげあきら)親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房(よしふさ)が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。
藤原兼家(東三条殿と称した)の姉娘超子は冷泉(れいぜい)天皇の女御(にょうご)となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。
殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。
その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池には竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。
その華やかな様は「本朝文粹(ほんちょうもんずい)」にも記されているが、邸は安元三年(1177)に火災で焼失した。』
                         出典:【東三条院址の駒札】より