平安時代後期、73代堀川、74代鳥羽、75代崇徳の三代の天皇、43年に亘り院政を敷いた白河上皇。
三大不如意といわれた、白河上皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言わせたほどの権力があった。
白河上皇が崩御すると鳥羽上皇が院政を敷こうと画策をする。
時の天皇崇徳天皇で、4才で即位する。鳥羽上皇の第一子だが、上皇は自分の子ではなく、祖父の白河天皇が待賢門院(藤原璋子(しょうし))に産ませた子ではないかとと疑い「叔父子」と呼び、疎んじたのである。
天皇は崇徳だが実権は鳥羽上皇が握り、寵愛する美福門院(藤原得子(なりこ))の産んだ子を天皇にせんがため、23才の崇徳天皇に攘夷を迫り、76代の天皇として3才の近衛天皇を即位させるのである。
退位した崇徳は上皇となるも実権はなく悶々と時を過ごすのである。
そんな折、近衛天皇が17才で崩御すると、崇徳上皇の弟である後白河が76代の天皇に即位する。
これにより崇徳上皇が政権に返り咲くことは無くなったのである。
また摂関家の藤原氏でも、長男の関白・忠道(ただみち)と弟・頼長(よりなが)の間で家督争いが起こるのである。
保元元年(1156)7月に、鳥羽上皇が亡くなると両者の対立は鮮明となり、その頃に勃興してきた武士を巻き込んでの権力争いが起こるのである。
これが骨肉相争うことになる「保元の乱」である。
鳥羽上皇崩御の翌日から、崇徳と頼長は、平忠正、源為義・為朝を集め、後白河と忠通は、平清盛、源義朝・義康らを東三条殿の守りに着かせるのである。
崇徳側の劣勢は明らかで、源為朝が東三条殿に夜襲をかける提案をするのだが、頼長が大和の援軍を待つべきと、これを退ける。
一方、後白河陣営は平氏・源氏を問わず多くの武士を集め、平清盛の300余騎、源義朝の200余騎と、源義康の100余騎が、崇徳、頼長らが籠る白河北殿に、先に夜襲をかけるのである。
崇徳側は源為朝らの奮戦で一進一退の攻防をするのだが、後白河側が新手を繰り出すと持ちこたえることが出来ず、総崩れとなり敗走するのである。
敗れた崇徳上皇は讃岐に配流され、失意のうちに、その地で亡くなるのである。
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