黒船とは、アメリカ東インド洋艦隊が、日本に来航した時の、サスケハナ・ミシシッピ・サラトガ・プリマスの4隻の軍艦のことを言い、その船体が防腐の為に、黒く塗られていたことから、呼ばれたという。

その艦隊が最初に来たのが、嘉永6年(1853)、神奈川浦賀沖であり、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えて幕府に開港を迫ったのであり、翌年、再びペリー率いる米艦隊が日本を訪れ、条約調印を迫るのである。この時に、徳川幕府は江戸から少しでも遠い伊豆の下田で協議をしようとなったのである。

嘉永7年(1854)に、ペリーが下田に来航すると、長州藩の吉田松陰は、広い世界をこの目で見たいと、弟子の金子重之輔と共に、黒船への密航を企て、小舟に乗って沖に漕ぎ出、柿崎弁天島辺りをとおり、旗艦ポーハタン号に乗り込むのだが、乗船を拒否され、下田奉行所に捕らわれの身となり、江戸伝馬町老屋敷に投獄されることになる。
死罪の裁きもあったのだが、幕閣にも人がいて、長州に送られ野山獄に幽閉されるのである。

下田の了仙寺にて、日米通商条約が締結されるのだが、それにともない下田は米艦隊乗組員の休息場所となったのである。
ここでも時代に翻弄された一人の女性がおり、その名を「唐人お吉」といい、本名は、斎藤きち、と言い14才で芸者となり、「お吉」を名乗り売れっこ芸者となるのだが・・・
ペリが来航してから3年後の安政4年(1857)に、アメリカ総領事のタウンセント・ハリスが病に臥せった時に、看護婦として世話をする婦人を幕府役人に依頼するのだが、当時、看護婦とは何かも分からずに、女を差し出せとは妾奉公だと思い、お吉に白羽の矢が立つのである。
お吉は固執するが、権力には逆らえずハリスのもとに赴くのである。介護の甲斐あって、ハリスの容態が回復すると、お吉は暇を出されるのだが、世間は異人に身を任せた女として、冷たい視線を浴びせるのである。
身に覚えのないこととは言え、世間の風はあまりにも冷たく、いつしか酒に溺れるようになり、その後は、身をやつし落ちぶれ果てて、明治23年(1890)に48才で、門票ケ淵に身を投げて、生涯を終えるのである。
亡くなった後も、異人に身を任せた女として、また、お吉を弔った宝福寺の住職が迫害を受けるなど、お吉への風当たりはつよかったのだが、小説や映画、歌謡曲などで「唐人お吉」として取り上げられたことにより、お吉への見方が変わってきたように思うのである。
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