律令制の行政単位では「五畿七道」が基本あり、明治を向かえるまで続いた。
五畿は、山城(京都府中南部)、大和(奈良県)、摂津(大阪府、兵庫県南東部)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)の五つを言い、
七道は、
東海道(栃木、群馬を除く関東一帯と山梨、神奈川、静岡、愛知、三重を含む地域)
東山道(東北6県と、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀を含む地域)
北陸道(新潟、富山、石川、福井を含む地域)
山陽道(兵庫南西部と岡山、広島、山口を含む地域)
山陰道(京都北部と兵庫北部、鳥取、島根を含む地域)
南海道(四国4県と、三重熊野、和歌山、淡路島を含む地域)
西海道(九州7県を含む地域)
を言い、七道を68の国に分けていたのである。
たとえば、長野県は信濃、高知県は土佐、鹿児島県は薩摩と呼ばれるが、信州、土州、薩州などとも呼ばれる。
京都は山城と呼ばれるが、山城は京都市を含み中南部の地域で、京都の北部(舞鶴、宮津、京丹後など)は丹後、中部(亀岡、福知山、南丹など)は丹波と呼ばれていたのである。
そして山城はまた、山州、城州、擁州と三つもの別称があった。
山州、城州の呼び方は理解出来るのだが、擁州(ようしゅう)は何処からきた呼び名であろうか。
これは平安京が唐の長安を手本に造営されたもので、唐の長安が擁州に属していたことから、それに因んで擁州と呼ばれるようになったのだと云う。
山城を古くは山代と書かれていたようで、山間部に開けた土地を意味する。
山代がやがて山背となるのだが、これは遡ること古く、古事記では「山代」、日本書紀では「山背」と書かれている。
山背と書いて「やましろ」と読むのだが、「やませ」と読めても「やましろ」とは読めない。
何故、山背が「やましろ」と読まれるようになったかと云うと、日本書紀が編纂された頃は大和国(奈良県)が政治の中心であり、大和から見ると山代は大和の裏、背後にあたるところから、山背と書き「やましろ」と読ませたと云われている。
平安京を造営するにあたり「背」という言葉の持つ意味が悪く、桓武天皇は「この国山河襟帯(きんたい)にして自然に城をなす。この形勝により新号を制すべし。よろしく山背国を改め山城国となすべし。」として、山背から山城に文字を変えたのである。



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