東山にある清水さんへの参道は何本かある。
松原通の六道の辻から東に、東大路を越えて清水道を登ってゆくのが、清水さんへ参る王道であるのだが、一番京都らしい参道が、建仁寺を南に出て東に、東大路通を越えると坂の上に八坂の塔が見える。
坂を登り八坂の塔を左に見て、文の助茶屋や明保野亭などを経て、三年坂を登ると清水道となり、清水寺となる。
ほかにも五条坂、茶わん坂、二年坂などがあり、その先は清水さんである。
清水坂と五条坂が合う道から北に下る石段の坂道を三年坂といい、さらにその先は二年坂へと続いてゆく。
三年坂は八坂の塔から清水寺への参道で、京都の定番の観光ルートであり、多くの人で賑わう。
三年坂は産寧坂(さんねいざか)とも呼ばれ、清水寺への参道である清水道へと出る。
では何故、この石段の坂道が三年坂、あるいは産寧坂と呼ばれるようになったのかというと、
この坂道が大同3年(807)に出来たことから、三年坂と呼ばれるようになったとも、
また清水さんの安産の神として信仰される子安観音(子安ノ塔)に、「お産が寧(やすら)かにと」安産を祈願する為に登る坂ということで、産寧坂と呼ばれたのだとも云う。
また豊臣秀吉の正妻・高台院(ねね)が子供の誕生を祈願するために、子安観音にお参りするのに、この坂を通ったことから産寧坂と呼ばれたとも、
また清水さんへの参拝の帰りに、振り返り子安ノ塔に安産を祈願したことから再念坂と呼ばれるようになりそれが三年坂になったとも、
また当初から産寧坂と呼ばれていたのが、発音が似た三年坂に変わったのだとも云うが、いずれが正しいのか・・・
三年坂には「明保野亭」の看板を掲げた店がある。
明保野亭は、坂本龍馬も常宿としていた所であり、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にも、しばしば登場をする。
しかし、明保野亭が知られるのは、幕末の池田屋事件(近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四人に打ち込まれて、吉田稔麿、北添佶摩、宮部鼎蔵、大高又次郎、石川潤次郎、杉山松助、松田重助らが落命し、明治維新が数年遅れたといい、新選組の名を一躍有名とする)にて、勤王の志士達が新選組によって命を落し、その残党を探索中の新選組が、東山の明保野亭に長州藩の浪士数名が密会しているとの情報を得て、元治元年(1864)6月に、新選組の武田観柳斎率いる隊士と、会津藩士の柴司(しば つかさ)らと共に踏み込むのである。
そこに居た浪士が逃げようとしたので、会津藩士の柴司が、逃げる後ろから槍で突いて手傷を負わすのだが、その浪士が土佐藩の麻田時太郎だと分かり、土佐藩に引き渡した。
しかし土佐藩では麻田の行いを、武士にあるまじき行いとして、切腹を命じるのであるのだが、これに納得しない一部の者が会津藩への反発を募らせるのである。
当時、土佐藩と会津藩の関係は良好であり、これによってその関係が悪化する恐れがあったのだが、会津の柴司が自ら切腹をしたことにより、その関係はことなきを得たのである。
そんな事件が明保野亭で起こっていたのである。
この事件のあった明保野亭は、料亭と旅館を兼ねていて、多くの志士たちが利用していた事が知られている。
今この三年坂(産寧坂)に「明保野亭」の店があるのだが、当時の明保野亭はここではなく、三年坂から少し下った「京都阪口」のある辺りにあったと言う。
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