室町幕府の室町は、烏丸通の二筋西を南北に通る「室町通」に由来することは前回述べたが、何故この通りがその名になったのだろうか。
それは室町時代での中で、文化も政治も一番華やかだったのが3代将軍足利義満(1358~1408)の時代であった。
その義満の居所があったのが、京都御苑の北西角の烏丸今出川交差点の斜め向かい側であり、北を上立売通、南を今出川通に、東を烏丸通、西を室町通に囲まれた東西一町、南北二町(1町は、約109m)の大きさであった。
しかし、今はここに室町幕府があったことを思わせるようなものは、何も残ってはいない
ただ、室町通と今出川通が交差する東北の角に、「従是東北足利将軍室町第址」の石碑が建っているのみである。
たまたま義満の邸宅の表門が、室町通に面していたことから、「室町第」と呼ばれるようになり、足利幕府が室町幕府と言われるようになった由来である。
足利義満はこの屋敷に鴨川から水を引き、四季折々の草花を植え、さながら花園のようだったことから「花の御所」と呼ばれるようになった。
義満は応永元年(1394)に、息子の義持にここを譲ると、北山第(鹿苑寺金閣)に移っている。
後に、応仁の乱にて焼失をし、文明年間(1468~87)に再建されるも、再び焼失をし、13代将軍足利義輝が二条御所を造営したことから、室町第は二度と再建されることはなかったのである。
室町第は度重なる戦乱にて焼失を繰り返し、今は当時の建物は殆ど残っていないのだが、室町第の中に足利義満が正室(日野業仔(なりこ))の叔母、日野宣子のために、岡松殿を与え住まわせたものが、尼門跡寺院の「大聖寺」として今に残っている。
「従是東北足利将軍室町第址」と刻まれた石碑を見ると、下の5分の1程のところで継ぎ合わされているのだが、何らかの理由で切断されたものを、戦後に下の部分を継ぎ合わせたのだという。
烏丸今出川の交差点から、烏丸通を北に歩くと、西北角に、通称「御寺御所(みてらごしょ)」と呼ばれる『大聖寺』がある。
大聖寺は、臨済宗相国寺派の尼門跡である。
貞冶7年(1368)に、足利義満が光厳天皇妃の無相定円禅尼を、花の御所の岡松殿に迎えたのが始まりとされ、禅尼の没後に寺に改められ、その法名にちなみ「大聖寺」と名付けられ、代々、内親王が住持となり、京都に十ケ寺ある門あと寺院のなかでも、格式の高い寺院である。
山門を入ると、ここが室町幕府・足利義満の「花の御所」であったことを示す石がある。
花の御所とは、この辺り一帯に京都御所よりも広大な、足利将軍家の邸宅があった。
この辺りの地名が室町であったことから、室町第とも室町御所とも呼ばれていた。
三代将軍、足利義満がこの地に築いたもので、鴨川から水を引き所々に花を咲かせ、さながら一面の花畑のようであったところから「花の御所」と呼ばれるようになった。
また義満は将軍職を我子に譲り、北山に鹿苑寺(金閣寺)を建てて住まいとしている。この頃が室町文化の華やかし頃である。
その花の御所も、八代将軍義政の時の応仁の乱にて焼失をした。
堺町御池でバスを降りて御池通に面した、高倉御池の南東角にあるのが「御所八幡宮」である。
御所八幡宮の謂れは、駒札によると
『応神天皇、神功皇后、比売(ひめ)神の三神を祭神とする。もと御池堺町西南角御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通の強制疎開によってこの地に移された。
この八幡社が御所八幡宮と呼ばれるのは、室町幕府初代将軍、足利尊氏が自らの邸内の守護神として勧請したことに由来するという。尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また現在の地名から高倉八幡とも呼ばれて親しまれてきた。
特に安産と幼児の守り神として有名で、左京区上高野の三宅八幡とならんで「虫八幡」と呼ばれ、世間の信仰を集めている。』
出典:【御所八幡宮の駒札】より
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