元弘3年(1333)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし親政を始めた建武の中興も、僅か3年で瓦解し、建武3年(1336)足利尊氏が光明天皇を擁立し、京都に開いた幕府が室町幕府である。
室町幕府は、元亀4年(1573)15代将軍足利義昭が、織田信長に京都を追放されるまで240年続くのである。

01足利尊氏邸跡mid
室町幕府の室町は、烏丸通の二筋西を南北に通る「室町通」に由来するのだが、実は室町通が幕府発祥の地ではない。
延元3年(1338)、征夷大将軍に任じられた足利尊氏は、三条坊門御所に屋敷を構え、ここで政務を司ったのである。
北は二条通、南は御池通、東は柳馬場通、西は高倉通に囲まれた、南北250m、東西120mの場所である。
尊氏の死後、屋敷は等持寺という寺院となるのだが、尊氏は天下を取ったら三つの寺院を立てるという誓いを立てたが果たせなかったために、一つの寺で三つの寺を建てたという意味から「寺」の字を三つ使った寺名としたのである。
高倉通御池上ルの京都府保険事業協同組合の建物の前に「室町幕府発祥の地-足利尊氏邸・等持寺跡-」の石碑と碑文が建っている。
碑文には、
『室町幕府発祥の地-足利尊氏邸・等持寺跡-
京都府保健事業協同組合・保事協会館のあるこの付近は、室町幕府初代将軍足利尊氏(1305~1358)の「三条坊門第」(二条万里小路第)のあったところである。
尊氏邸の範囲については諸説あるが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えるのが最も合理的であろう。
尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358)に、ここで薨じた。
この地は、のちに「室町幕府」と呼ばれた政権の発祥の地であったわけである。
後にこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められた。
尊氏は三つの寺院を建てることを願ったが果たせず、そのため「等持寺」という文字の中には三つの「寺」の字が含まれることになったと伝えられている。
等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たした。
しかし、応仁・文明の大乱(1467~77)以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院(北区)に合併されてしまった。
近辺に残る「御所八幡宮」は、尊氏邸・等持寺の鎮守社であったという。
なお、この地は平安京の条坊表示では左京三条四坊七町にあたり、歌人として著名な右大臣藤原定方(873~932)の邸宅「大西殿」があったことでも知られている。
後にこの邸宅は冷泉天皇皇后昌子内親王(950~999)の御所となった。
紫式部が「源氏物語」で描く藤壺中宮とその御所三条宮は、昌子内親王と大西殿をモデルのひとつとした可能性が高い。
京都府保健事業協同組合は、こうした由緒ある史跡の一角に活動の本拠地を置くことを悦び、組合創立45周年を記念しここに顕彰碑および解説板を建立する。』
             出典:【室町幕府発祥の地-足利尊氏邸・等持寺跡-】より