錦小路通は平安京の錦小路にあたり、東は四条通の一筋北、新京極通の錦天満宮から西の壬生川通までの2Kmの通りである。
新京極の錦天満宮(寺町通)から西に、高倉通までの400mほどに3m幅の狭い通りに、色々な食品を扱う百数十軒の店が並ぶ。ここが京の台所と言われる「錦市場」である。
ここは昔から、地下水に恵まれたことから、天正年間(1573~1592)に市の形態が整い、元和年間(1615~1624)に、徳川幕府から魚問屋を許され、本格的な市場として、今に続いている。
しかし最近は、錦市場を歩く人は、観光客と外国人が多くなり、根っからの京都人がここで買い物をするのは、段々と少なくなってきているのである。
今は食材を扱う錦小路だが、かつては「糞小路(くそのこうじ)」と呼ばれていたという。
それは、鎌倉時代の編纂になる「宇治拾遺物語」によると、その昔、清徳という僧が3年もの間、愛宕山にこもり母の成仏を願い、断食の祈願をしたという。
願いが叶い下山するのだが、腹がへり食物を手当たり次第食したという。
清徳が錦小路まで来たときに、便意をもよおし山のような排便をするのだが、その中に無数の餓鬼がいて、糞を小路にまき散らしたので、あたり一面悪臭が立ち込め、この小路を糞小路と呼ぶようになったという。
時の後冷泉天皇はこれを知り下品な通り名だと嘆き、綾錦から錦をとり「錦小路」に改めたというのだが、これは「宇治拾遺物語」の作り話であり、平安時代には鎧や兜などの具足を作っていたことから「具足小路」と呼ばれており、「ぐそく」が訛り「くそく」になり「くそ小路」と呼ばれたのだという。
錦市場は江戸時代初期に「錦の店(にしきのたな)」という魚問屋に始まり、元和年間(1615~24)に江戸幕府は魚問屋の称号を授け、「上の店」「六条の店」とともに「三店魚問屋(さんたなうおどんや)」と呼ばれた。
江戸時代の中頃に青物市場も開かれ、総合市場となってゆく。
伊藤若冲が、この錦市場の青物問屋「枡屋」の長男として生れたことは良く知られている。伊藤若冲は正徳6年(1716)から寛政12年(1800)の、江戸中期に活躍した絵師である。
また若冲と錦市場との関係に新しい事実が判ったといい、説明板によれば、
『伊藤若冲が京都錦の青物問屋の生まれという事実はひろく知られている。
若冲が描く絵画のなかには蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲普(さいちゅうふ)という巻物には、野菜だけではなく石榴や蜜柑、桃といった果物までが描かれている。
極め付けは、野菜涅槃図で、釈迦の入滅の様子を描いた涅槃図になぞらえて、中央に大根が横たわり、その周囲には、大根の死を嘆くさまざまな野菜や果物たちがえがかれている。
このようなユニークな作品は、若冲が青物問屋を生家とすることに由来しているといわれる。若冲は、次第に家督を譲って、錦で絵画三昧の生活を送っていたとされていた。
しかし、近年、あらたな史料が発見されたことにより、錦市場における若冲のイメージが一変した。その史料とは、「京都錦小路青物市場記録」というもので、明和8年(1711)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える史料である。
これによると、若冲は錦市場の営業許可をめぐって、じつに細やかに、かつ、積極的に調整活動をおこなっている。その結果、錦市場は窮状を脱することになるのだが、若冲のこのような実務的な側面は、これまでまったく知られていなかった。
若冲は、文字通り青物問屋の主人として錦市場に生きていたのである。』
出典:【伊藤若冲生家跡 伊冲と錦市場】より
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