日本各地には難読地名があり、京都でも「太秦(うずまさ)」「化野(あだしの)」「栂尾(とがのお)」「雲母坂(きららざか)」「御陵(みささぎ)」「深泥池(みどろがいけ)」「帷子ノ辻(からびらのつじ)」「西石垣(さいぜき)」などがある。
京都五花街のひつつ先斗町も難読地名なのだが、昭和39年(1964)東京オリンピックが開催された年に流行った「富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も 雪に変わりはないじゃなし とけて流れりゃみな同じ」とお座敷小唄に唄われたことから、先斗町が知られるようになり、誰しもが「ぽんとちょう」と読めるようになる。
では何故、「先斗町」を「ぽんとちょう」と読むのだろうか。
どう読んでも「先」を「ぽん」とは読めないのだが・・・
実はポルトガル語に由来するという。
先斗町は、三条通の一筋南から四条通まで、鴨川と木屋町通の間を南北に500mほどの石畳の細い通りである。
花街なのだが一般の飲食店も並び、通り東側の店は鴨川に面し、5月から9月まで納涼床が設けられる。
先斗町は江戸時代の初めまでは鴨川の州であったが、、寛文10年(1670)鴨川の護岸工事で埋立てられ、新しい街並みが出来、河原町通に対して新河原町通と呼ばれていた。
正徳2年(1712)に水茶屋が設けられ、安政6年(1859)に花街としての公許が下り、明治5年(1872)に「鴨川をどり」が初演されると、祇園と並ぶ花街として栄えてゆくのである。
先斗町が「ぽんとちょう」と呼ばれるようになったのは、当初は鴨川の西側に人家が集まっていたことから、先端を意味するポルトガル語のPONTA(ポンタ)と呼ばれるようになり、それがポントに変わり「先斗」の文字をあて、「ぽんと」と読ませたのだという。
四条通の入口に掛る駒札によれば、
『この地はもと鴨川の州であったが寛文10年(1670)に護岸工事の為埋め立て石垣を築き町家が出来て、これを新河原町通りといった。
その後三条一筋南から、四条まで、即ち南北600m、東西50mにわたる地域に人家が建ちなら俗に先斗町と呼ぶようになった。
正徳2年(1712)に茶屋、旅籠屋両株と茶立の女子を置くことを許され爾来花柳の街として繁昌、現在に至っている。
先斗町の呼名は、ここの人家がすべて川原の西側にたち、先ばかりに集中したところから先斗町と呼ばれたともいい、葡萄牙(ぽるとがる)語(PONT)英語の(POINT)の発音によったともいわれる。
京の年中行事「鴨川をどり」は」明治5年に創始、今日迄京の春秋をあでやかに色どっている。』
出典:【京名所 先斗町の駒札】より
コメント
コメント一覧 (2)
youhobito
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まさに先斗町はその代表でしょうね。
youhobito
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