京都の中央部を、東は鴨川の川端通から西は太秦の天神川通までの5Kmを東西に通るのが「御池通」である。
御池通という名から池にちなんだ通り名だと想像はつくが、ではその池は何処にあるのだろうか。
御池通は平安京の三条坊門小路にあたり、東の川端通から西に、途中JR山陰本線の二条駅で分断されるが、地下には市営地下鉄東西線は走っている。
鴨川の西から堀河通までの間は、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)に道路沿いの民家を強制移転をし、空襲からの延焼を防ぐ防火帯を設けたのである。
終戦後に幅員50mもある幹線道路となるのである。
祇園祭や時代祭の巡行ルートでもあり、「ハレ」の道として京都のシンボルロードとなっている。
さて御池の池は何処にあるのだろうか。
それは平安京が造営された頃までさかのぼることになる。
御池通が平安京の三条坊門小路だということは既に述べたが、この三条坊門小路の二条から三条の辺りに「神泉苑」という天皇御遊の広大な苑池があり、この池に通じる道だということから、江戸時代中頃に御池通と呼ばれるようになったと言われている。
二条駅東口で御池通と交差する千本通も、興味深い通り名である。
千本通は、北区鷹峯から南に、伏見区の納所町までの南北の道路なのだが、平安京では羅城門から北に、船岡山に向けて伸びる朱雀大路がこの道の起源である。
しかし朱雀大路は、羅城門も早くに荒廃し、平安京の右京は水はけが悪く、少し雨が降るとすぐに水浸しとなる所で、徐々に寂れてゆき、繁栄を左京に譲り、いつしか廃れてゆくのである。
それと共に朱雀大路も、また名も無き道へとなってゆくのである。
千本とは、千本桜、千本鳥居、千本松原など数が多いことのたとえで、実際にその物が千本あるわけではない。
では千本通の千本は何を意味しているのだろうか。
平安京の都には葬送の地が点在し、その一つが船岡山の近く蓮台野にも葬送の地があり、ここに死者を埋葬するために、朱雀大路を北に、その供養のために、いくつもの卒塔婆が立てられたという。
その卒塔婆の数が多く、千本卒塔婆と呼ばれていたことから「千本通」と呼ばれるようになったのだという。
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