北野天満宮の近くに「上七軒」という花街がある。
上七軒は京都五花街の一つで、その成り立ちは北野天満宮と深い関わりがある。
延喜3年(903)に、大宰府で菅原道真が亡くなってから、都には落雷や地震、洪水が頻発し、疫病などが蔓延し、道真を大宰府に流した藤原時平の死など天変地異が起こった。
これは菅原道真の怨霊が為せるものだと信じられ、道真の怨霊を鎮めるために、天暦元年(947)に社殿を建て道真の霊を慰めたのが、北野天満宮の始りである。
平安京には、内野・平野・上野・北野・紫野・蓮台野・〆野と呼ばれる、洛北七野があり、天満宮が大内裏の北にある北野に建てられたことから、北野天満宮と言われるようになる。
北野天満宮は、応仁の乱などの戦乱により幾度となく焼失し、その都度再建されるのだが、室町8代将軍の足利義政が社殿を再建した際に、残った材木で参詣者の休息所として7軒の茶屋を建てたことから、七軒茶屋と呼ばれるようになり、これが「上七軒」の始りだとされる。
「上七軒」があれば「下七軒」があってもよいのだが・・・
「上七軒」の「上」は何故付けられたのだろうか・・・
通説には、北野天満宮の南に「下ノ森」という社有地があり、これと区別するために「上」という文字を付け「上七軒」と呼んだというのだが・・・
本来は「七軒茶屋」と言い、何故「上」の文字が付いたのかは定かではなく、そもそも上七軒の成り立ちから言えば、「下七軒」なる地名はもともと存在はしないのである。
上七軒の紋章である「みたらし団子」は、豊臣秀吉が北野天行宮の北野松原で開いた「大茶会」に由来する。
北野天満宮の三の鳥居をくぐると、豊臣秀吉がここで開いた「大茶湯会」の址をしるす石碑が建つ。
この北野の茶会と醍醐の花見で、秀吉の成り上がりゆえの、権力と富をひけらかす、自身への自己顕示欲だったのであろう。
天正15年(1587)10月に、秀吉が北野で開いた「大茶会」は、九州平定を終え天下統一が見え始めた頃に、秀吉の自己顕示欲が湧き上がり、京の聚楽第の造営と併せ、北野天満宮の境内にて、京都の町人・百姓から大名まで、身分に関係なく参加してもよいという、大茶会を計画したのである。
10月1日当日は、黄金の茶室や秀吉自慢の茶器などを並べて、千利休・津田宗及・今井宗久の当代きっての茶人により茶が振舞われ、茶会は盛大に催されたのであるのだが・・・
ところが次の日、突然に茶会は中止となり、10日間の予定だった茶会は、その後も開かれることはなく、結局一日だけの茶会となったのである。
中止の理由は、秀吉の心の内をみない限り分からないのだが、「肥後国で一機が起こった」ためであると云われているのだが、他にも「秀吉が一日で飽きてしまった」とか「多くの人をもてなすのに疲れた」とかあるが実は、「秀吉が思っていたほどに、京都の町衆が集まらず、茶会の失敗を恐れた秀吉が、一日だけで止めてしまった」という説などもある。
そして、その石碑の近くには、この茶会で茶の湯の水を汲んだという井戸があり、「太閤井戸」として今に残っているのだが、その茶会の時に休息所としたのが「七軒茶屋」で、秀吉がそこで出された「みたらし団子」が気に入り、ここを山城一帯の茶屋支配を許したといい、上七軒の「みたらし団子」の紋章はこれに由来をするのである。
上七軒は西陣の奥座敷ともいわれ、西陣の旦那衆が遊びに接待に使ったといい、戦前(昭和20年以前)は、大いに賑わったという。
しかし太平洋戦争が始まり多くの茶屋が廃業してしまったのだが、戦後に多くの茶屋が再開するも、西陣織の衰退とともに茶屋も減ったのだが、昔ながらの花街の風情を残しつつ、新しいものを取り入れながら、北野天満宮とともに伝統を今に伝えている。
コメント