京都の北に、「上賀茂神社」と「下鴨神社」という、二つの「かも」と名の付く神社がある。
上賀茂・下鴨と対をなす神社だが、同じ「かも」と読んでも、一方は「賀茂」で、もう一つは「鴨」と書く。
何故、同じ「かも」と読むのに、文字が違うのかと、誰しも疑問を覚えるのであるのだが・・・
同じことが、京都市内を北から南に流れる「かもがわ」にも言えるのである。
「かもがわ」は、丹波の山間・桟敷ケ岳に流れを発し、出町柳で高野川と合流し、京都市内を南に流れ、下鳥羽で桂川に流れ込むのだが、出町柳の高野川と合流するまでの上流は「賀茂川」と書かれ、それからの下流を「鴨川」と書かれている。
河川法では、源流から桂川に合流するまでを鴨川と呼び、正式名称は「鴨川」なのである。
元々この辺り一帯は、渡来人の賀茂氏が支配していた所であり、上賀茂神社、下鴨神社は賀茂氏の氏神だったようで、平安京よりも前、すでにあったという。
正式名称を、上賀茂神社は「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」、下鴨神社は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と云い、上社と下社を総称して賀茂神社と呼ばれる。
5月に行われる「葵祭」は、この両社(賀茂神社)の大祭なのである。
では何故、上社が「賀茂」で下社が「鴨」と書かれるのだろうか・・・
それは、「かも」の文字を区別することで、上社と下社がはっきりするようにと言う説、また賀茂神社が賀茂氏の氏神であり、賀茂氏は鴨氏とも書いたことから、それに由来したのではないかという説もあるのだが、特に深い意味はないようである。
下鴨・上賀茂神社の成り立ちは、どうやら下鴨神社の祭神が産んだ子が、上賀茂神社の祭神となっているようで、上社と下社が逆となるのだが、まずは下鴨神社を訪ねることとする。
下鴨神社の名は、鴨川(賀茂川)の下流に祀られていることから「鴨」の文字をあて、下鴨神社と呼ばれるという説もあるのだが、これは通称で正式には「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)と云う。
山城国一ノ宮で起源は古く、日本書紀神武天皇2年(BC658頃)の条にこの神社のことが記されている。
その昔、この地を治めた賀茂氏が創祀したと云われ、平安以前から存在する京都で最も古い神社である。
上賀茂神社とともに、平安京のできたころには、皇居の鎮護として崇敬されていた。
祭神は、東御本殿に「玉依媛命」(たまよりひめのみこと)、西御本殿に「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと:玉依媛の父)で、玉依媛が瀬見の小川の上流から流れてきた丹塗りの矢により身ごもり、上賀茂神社の祭神である「別雷神」を生んだということから、その母にあたり御祖(みおや)と呼ばれ、この神社が「賀茂御祖神社」と云われるようになったのである。
賀茂川と鞍馬の八瀬から流れてくる高野川との合流点を河合といい、その南に賀茂大橋、合流地点上流の賀茂川に葵橋、高野川に河合橋が架かっていて、葵橋を渡り参道を進むと楼門となる。
門を入ると舞殿、その左に神服殿、右に細殿・橋殿があり、その先に中聞があり、その内に幣殿・祝詞舎が、その奥に本殿がある。
本殿は文久3年(1863)の改築で、その他の社殿は寛永5年(1628)の再建になる。
下鴨神社から、賀茂川を西北に3Kmほど遡ると御園橋となり、そこから100mで上賀茂神社となる。
上社と下社が逆になったが、下鴨神社の祭神である「玉依媛命」(たまよりひめのみこと)が産んだ「別雷神」が、上賀茂神社の祭神であることから、上下を逆に紹介をしたのである。
上賀茂神社は、正式には「賀茂別雷神社」と言い、神武天皇の御代に創建されたというから、まさに古事記の世界である。
平安遷都に際し、都を護る王城鎮護の社として崇敬をされ、多くの人々の信仰を集め、5月15日に行われる葵祭は、京三大祭の一つとして有名である。
また境内を流れる、御物忌川と御手洗川が合流し明神川として流れてゆく川筋には社家が並び、時の流れがとまったかのように、ひと時の安らぎを与えてくれる。
上賀茂神社は御園橋から、約100mほどで上賀茂神社の一の鳥居が見え、楢の小川を越えると、上賀茂神社である。
上賀茂神社にも2棟の国宝と34の重要文化財があり、その重要文化財も殆んどが寛永5年(1628)に造替されたものである。
本殿と権殿はともに三間社、流造で、文久3年(1863)造替になる国宝である。
5月15日に行なわれる上賀茂、下鴨両神社の祭礼である葵祭は、6世紀欽明天皇の頃に、度々起こる風水害が賀茂神の祟りだとされ、馬に鈴をつけ走らせたところ、嵐が収まり五穀豊穣となったことに由来すると云う。
爾来、賀茂氏により「賀茂祭」として伝えられる。以降、現代まで都の怨霊を鎮めるための祭として、後の「祇園祭」「時代祭」とともに、京都の怨霊鎮めの祭と云われるようになったのである。






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