茶道の流派に「表千家」と「裏千家」があるのは誰しも知る所だが、では何故、表と裏という流派があり、どこが違うのであろうか。

01不審庵mid
法華(日蓮)宗が教線を伸ばすのと時を同じくして、千利休によって茶の湯が完成をする。
それは、京町衆や堺・博多の豪商たちの文化的なたしなみとして支持をされていたことも一因である。
現在、茶の湯は「表千家」と「裏千家」と言われるように、表と裏に分かれているのだが、元々は同じ、千利休を始祖とする茶道家の一派である。
利休が秀吉の琴線に触れ、その理由は色々あるが、切腹を命じられると、一族は散りじりとなり、2代を養子の小庵が、3代を小庵の子の宗旦が継ぐのだが、宗旦は千家の本流の「不審庵」を三男の宗左に譲り、不審庵の北側に「今日庵」を建て、四男の宗室と共に隠居生活を送るのである。宗旦の死後、宗室は「今日庵」を受け継いで一派をなすのである。
「今日庵」が「不審庵」の裏側にあることから、「裏千家」と呼ばれるようになり、千家の本家を「表千家」と呼ぶようになったのである。

02官休庵mid
また宗旦の次男の宗守も「官休庵」を建て、「武者小路千家」を起こすのである。
「表千家・不審庵」と「裏千家・今日庵」は、堀河通の一筋東にある小川通に並んで建っているのだが、「武者小路千家・官休庵」は京都御苑の乾御門から400m西にある武者小路通に建っている。
このように千利休が確率した茶の湯は、宗旦の三男・宗左が本家の「表千家」を、四男の宗室が分家の「裏千家」を、次男の宗守が「武者小路千家」を継ぎ、茶の道の伝統を受け継いでゆくのである。