西の旅から京都に帰って来る時に、新幹線の車窓から右側に見えるのが、東寺の五重塔。この塔が目に入ると、京都に帰ったのだという気がしてくる。
ちなみに東の旅では、新幹線が東山トンネルに入ると、京都で降りる人達が準備を始める。
平安京朱雀大路の南の端には、羅城門が建てられた。
この羅城門を挟んで、東寺と西寺の二大官寺が堂塔伽藍をそびえさせていた。
東寺は、幾多の火災にあったが、都度再建をされ今に残っているのに対し、西寺は鎌倉時代の天福元年(1233)に堂塔伽藍が焼失してから、再建されることはなく、荒廃の一途をたどり、今は講堂の土壇跡が残るのみで、「史跡西寺址」の小さな石碑から、平安の昔の隆盛した頃の姿を思い巡らすのみであるのだが、何故、「東寺」が残り「西寺」が廃れたのであろうか。

01五重塔mid
東寺と西寺は、延暦13年(794)に平安京が造られた時に、国家鎮護の為に羅城門を挟み東と西に建てられた官寺であったが、造営途中の嵯峨天皇の御代、弘仁14年(823)に、東寺を空海、西寺を守敏(しゅびん)に下げ渡すのである。

02本堂mid
東寺は真言宗の総本山で、教王護国寺という。
桓武天皇の延暦13年(794)平安遷都の時に羅城門の左右に鴻臚館をおいて、外国の賓客をもてなす接待の場としたが、嵯峨天皇の弘仁14年(823)に、唐から帰った空海(弘法大師)が東鴻臚館を賜り、これを仏寺に改め真言密教の根本道場とすべく、「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と定め、その造営に当たったのが東寺の起源と云われている。
空海が唐で学んだ真言密教は、当時では新興宗教であったが、平安遷都の新しい時代を生きる人々の心を捉え、教王護国寺(東寺)は京の始まりと共に、今日まで伝わった数少ない平安京の遺構である。
学僧名僧も多く居住し、朝廷、公家、武家の信仰も厚く、中世には多くの寺領も寄せられた。

03西寺趾(1)mid
東寺から九条通を西に歩くと羅城門の址があり、そこから西に500m程歩き、七本松通を北に200m程行くと「唐橋西寺公園」がある。
このあたり一帯が、平安京で羅城門を挟んで、東寺と対にして建てられた西寺があった場所である。
西寺は平安遷都からすぐの延暦15年(796)から羅城門を挟みその西側に、東寺と対象に建立された、二大官寺のひとつである。
創建当時は、羅城門を挟み東寺と西寺の大伽藍がそびえ、平安の都を鎮護していたのである。
西寺の寺域は、東西二町(約250m)南北四町(約510m)の広さを誇り、そのなかに金堂、講堂を中心に南大門、中門、五重塔、僧坊、食堂などの伽藍が建ち並び、東寺と同様に隆盛を究めていた。
寺域は、東西二町(約250m)、南北四町(約510m)を有し、主要伽藍跡は現在唐橋小学校と西寺児童公園の下にあり、伽藍中心部は国の史跡に指定されている。
公園のなかに「史跡西寺址」の石碑が建つ小丘が講堂のあった処であり、講堂の土壇の跡が残っている。

04神泉苑mid
東寺と西寺が下賜された翌年(824年)に、平安京深刻な干ばつに見舞われると、淳和天皇は、東寺の空海と西寺の守敏とが、旱魃に苦しむ民を救えと、神泉苑の法成就池で雨乞いの祈祷を命じたのである。
かって、空海と雨乞いの法を競ったときに、空海の法力に敗れていた守敏は、呪力で雨を降らせる龍神を閉じ込めて、空海の法力を封じようとしたのだが、空海はこれを見抜き北天竺に唯一つ残った善女龍王を勧請し、日本国中に雨を降らしたという。
以来、神泉苑の法成就池には善女龍王が住むようになったと云われる。
この法力対決に敗れた守敏は力を失い、西寺の衰退につながっていくのである。

05仁王門mid
そのことにより空海を崇敬する者が増え、時の権力者にも帰依されて、創建千年余りの歳月のなかで、しばしば荒廃したが、その都度再建をされる。
現在の伽藍は、室町時代から江戸時代にかけて再建されたものである。
兵火では、平安末期の源氏と平氏の争いで荒れたのをきっかけに荒廃したが、鎌倉時代に再建された。
応仁の乱では、京の町の殆んどが焼き尽くされたが、東寺だけは難を逃れた。
これは空海(弘法大師)の威徳が人々の心に染み入っており、西軍東軍の兵もこの建物に手を掛けることが出来なかったといえる。

06西寺趾(2)mid
一方、西寺は守敏が雨乞いの祈祷で空海に敗れて力を失っていくと共に寺勢も衰え、正暦元年(990)に伽藍が焼け、再建後も鎌倉時代の天福元年(1233)に再び焼失してしまってからは衰微の一途となり、今は僅かに金堂跡と講堂跡を留めるばかりである。
同じ平安京の二大官寺であったのに、東寺が現在まで堂塔伽藍や宝物が残ったのに対し、西寺は僅かに石碑にその名残を留めるばかりである。
これは東寺が真言密教という教えを広く世に広め、その時々の権力者の帰依により都度再興したのに対し、西寺は後押しを得ず、荒廃の一途をたどり、終にはその跡をも残すことが出来なかったのである。