京都駅から歩いて10分ほどの所に、二つの本願寺がある。
一つは七条堀川にある「西本願寺」、もう一つは六条烏丸の「東本願寺」である。
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、「本願寺」が正式名称である。
一方、東本願寺は浄土真宗大谷派の本山で、正式名は「真宗本廟」である。
今でこそ東と西に分かれているのだが、本来は本願寺という一つの寺院であったのだが、豊臣秀吉と徳川家康との政治的な思惑により、東西の本願寺に別けられたのである。
本願寺の起こりは、弘長2年(1262)に親鸞が90歳で示滅した後、文永9年(1272)、親鸞の末娘覚信尼が東山大谷に聖人の肖像を安置し、御影堂を建てるのだが、これが本願寺の起源だと云われている。
その後、紆余曲折を経て、元亨元年(1314)親鸞の御影像を安置した大谷影堂を再建し、本願寺と称するようになった。
熱心な布教活動で信者を増やし、長録元年(1457)に蓮如上人が第8世を継ぎ、親鸞の教えを民衆に判り易く説き、飛躍的に発展をとげる。
ところが積極的な伝道で比叡山延暦寺を刺激し、寛正6年(1465)に比叡山の僧兵によって大谷本願寺が破壊される。
それから蓮如上人は、越前吉崎に逃れ、さらに丹波、摂津、河内と拠点を変え布教活動をし、文明15年(1483)山科に本願寺を建立し、大教団となっていく。
ところが、この山科本願寺も京の日蓮宗徒と近江の六角氏の連合軍により焼失し、天文元年(1532)大坂の石山へと移ることになる。
大坂石山に移るも織田信長が勢力を増し、天下統一がなされようとする時、元亀元年(1570)に浄土真宗門徒の本拠地で西国への要の地である、大坂石山本願寺の退去を命じたことから、10年に及ぶ石山合戦が始まるのである。
当初は徹底抗戦で団結して戦ったものの、末期には強行派と穏健派に分裂し、内からの崩壊により天正8年(1581)に信長と講和を結ぶことになる。
しかし信長が本能寺の変で没し豊臣秀吉が天下をとると、秀吉は六条堀川に寺地を与え、11世顕如に本願寺を再興させるのである。
それが現在の西本願寺であり、天正19年(1591)のことである。
さらに時は進み、秀吉が没し、家康が天下を握ると本願寺の勢力を分散させる目的で、慶長7年(1602)に、七条堀川にある本願寺のすぐ東、烏丸六条に広大な寺地を与え、本願寺を分立させるのである。
これにより、浄土真宗本願寺派(西本願寺)と真宗大谷派(東本願寺)の二つに分かれることになる。
七条堀川の本願寺より東にあるため、分立した本願寺を後に東本願寺と呼び、それに対比して一方を西本願寺と呼ぶようになったのである。
西本願寺は、正しくは「浄土真宗本願寺派 龍谷山本願寺」と言う、浄土真宗本願寺派の本山で、親鸞聖人の娘である覚信尼は、親鸞聖人が寂滅すると、東山大谷に聖人の肖像を安置し、御影堂を建てるのだが、これが本願寺の起源だと云われている。
室町時代の中期に蓮如上人が第8世を継ぎ、親鸞の教えを民衆に判り易く説き、飛躍的に発展をとげる。
しかし、その後たびたび戦乱に遭い、寺院を京都の山科や大坂の石山などに築くが、山科本願寺は、天文の乱により焼失し、石山本願寺は、織田信長との石山合戦に破れ、その後、各地を転々とするのだが、天正19年(1591)に、豊臣秀吉の寄進を受け、現在の七条堀川の地に堂宇を建立するのである。
現在の諸堂は元和3年(1617)の大火災後に建てられたもので、大師堂の北に本堂、南西に接して大書院があり、南東隅には飛雲閣、浴室、鐘楼があり南に四脚門がある。
東本願寺は、「真宗大谷派 真宗本廟」という。
徳川家康が本願寺の力を削ぐ為に、慶長7年(1602)烏丸通の地に寺地を与え、秀吉によって隠退を強いられた教如上人を門主とする、もう一つの本願寺を開くのである。
東本願寺の諸堂は度々火災に遭い、現在の伽藍は明治28年(1895)の再建になるものである。
烏丸通に面して建つ四脚門、その門の正面に本堂、本堂の北に大師堂、東南にある鐘楼の鐘には慶長9年(1604)の銘があり、創建当時のものである。




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