宇治川の西には誰しも良く知っている「平等院鳳凰堂」があるのだが、その対岸に日本で一番古い「宇治上神社」があることは、あまり知られてはいない。
宇治上神社は、そんなに大きな神社でもなく、何処にでもあるような神社なのだが、ここは世界遺産に認定されている。
宇治上神社があれば、宇治下という神社があってもよさそうなのだが、何処にも見当たらない。宇治下神社という名の神社はないのである。
延喜式によれば「宇治神社二座」とあり、この二座は「宇治上神社」と、その下にある「宇治神社」だという。
もともとは両社を合わせて「宇治離宮明神」という神社だったようで、それが二つに分かれて「宇治上神社」と「宇治神社」になったのだという。
「宇治上神社」は、本宮または離宮上社と呼ばれ、「宇治神社」は、若宮または離宮下社と呼ばれていたようだが、明治の廃仏稀釈で、一方を「宇治上神社」とし、一方を「宇治下神社」ととしなかった理由は定かではないのだが、同じ神社が分かれるときに、上や下のように序列関係がはっきりするような名を避けたのであろうと推察でき、宇治神社がその名に下という名を付けなかったことは、かすかな抵抗だったのだろうかと思うのだが・・・
それが、宇治上神社があって、宇治下神社がない理由だと思うのである。
京阪宇治線の宇治駅から、宇治川に沿って南東に10分ほど、またJR宇治駅からは20分ほど歩くと、世界遺産の「宇治上神社」がある。
宇治上神社の起源ははっきりしないが、近くの宇治神社と合わせ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていた。平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の信仰を集めた。
拝殿は、鎌倉時代の始めに宇治離宮を移したものと云われ、現存する最古の拝殿である。神の住まう本殿に対し、人が使う拝殿は当時の住宅様式で造られることが多く、切妻造の入母屋で、縋破風の屋根を持つ寝殿造となっていて、当時の住宅の様がよく表れている。
宇治上神社の祭神は、悲運の皇子、莵道稚郎子(うじのわけいらつこ)の他、父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っている。
本殿は、平安時代後期に造られた日本最古の神社建築である。内殿に三社が並んで建っており、左に仁徳天皇、中に応神天皇、右に莵道稚郎子が祀られている。
内殿三社は、一間社流造の桧皮葺であり、その三社を桁行五間、梁行三間の流造、桧皮葺の覆屋で囲った珍しい建物になっている。外からは、この覆屋しか見ることが出来ないのである。
宇治上神社から早蕨の古蹟を廻り、宇治川へ続く道に宇治神社がある。
もともとは宇治上神社と合わせて、宇治離宮明神と呼ばれ、延喜式に山城国宇治に宇治神社二座ありと記されている。この神社が、宇治上神社の対をなす、宇治下神社である。
『宇治神社の祭神は、15代応神天皇の皇子「菟道稚郎子命」(うじのわきいらつこのみこと)であり、この辺りは応神天皇の桐原日桁宮跡であり、菟道稚郎子の住まいがあった処とも云われている。
本殿は鎌倉時代の初期に建てられたもので、三間社流造、桧皮葺となっている。
この社は宇治の氏神で、菟道稚郎子皇子が幼い頃から天与があり学問に優れ、我が国最初の文教の始祖と崇められ、受験合格の神様として、その季節になるとお参りに訪れる人は後を絶たない。
菟道稚郎子命が悲劇の皇子と云われるのは、皇位継承で父の応神天皇は菟道稚郎子を天皇にしようとするが、皇子は兄の大鶴鷯命(おおささぎのみこと)を差し置いて天位につくことは出来ないと兄に譲ったが・・・
お互いに譲り合った末に、菟道稚郎子が自らの死をもってそれに節目をつけたのである。
即位した兄の仁徳天皇は、菟道稚郎子の住まい跡に祠を設け、その御霊を祀ったのが宇治神社の始まりと云われている。』
参照:【宇治神社、御由緒の駒札】より



コメント