徳川家康から15代の徳川慶喜が大政奉還するまでの、江戸を拠点として265年間続いた江戸幕府。
菩提寺も江戸にあり、芝の増上寺と上野の寛永寺である。
ところが京都にも徳川の菩提寺があったのである。

01勢至堂mid
それは円山公園の北にある、浄土宗総本山の「知恩院」である。
駒札には、
『浄土宗の総本山で、法然上人を開基とする。
この地は法然上人が比叡山から下り、草庵(吉水の草庵という)を結び、初めて浄土の教を宣布したところである。
法然の死後、文歴元年(1234)弟子勢観房源智が廟所をととのえて華頂山知恩院大谷寺と号し、みずから当寺第2世となった。
応仁の乱の時には一旦兵火を近江にさけたが、のち徳川家康の手厚い帰依をうけ、広大な寺地の寄進をうけて時観をととのえた。
三門は徳川秀忠が元和7年(1621)に建立した宏壮雄麗な大楼門で、国宝に指定されている。
このほか、本堂(御影堂・国宝)は寛永16年(1639)、大方丈・小方丈(いずれも重要文化財)は寛永18年(1641)の建築で、本堂と集会堂と大方丈をつなぐ三角間の長廊は、知恩院七不思議の一つに数えられる「鶯張りの廊下」として有名である。
寺宝として阿弥陀二十五菩薩来迎図(国宝)ほか多数を蔵する。』
                           出典:【知恩院の駒札】より

02廟堂mid
知恩院は、織田信長や豊臣秀吉らの庇護を受け寺勢を伸ばすのだが、現在の堂塔伽藍は徳川幕府により造営されたものである。
それは徳川家康が浄土宗に帰依し、慶長7年(1602)に生母、伝通院が亡くなると知恩院を徳川の菩提寺と定め、七堂伽藍を整備するのである。
2代秀忠、3代家光と受け継がれ、寛永10年(1633)に諸堂が焼失すると、すぐに再建されている。
何故、徳川家は知恩院をこれほど庇護したのであろうか・・・

03経堂mid
それは、京の朝廷を監視する為と将軍上洛の際の泊所として二条城を造営したのだが、万一、二条城に事あった時に、その代わりとなるべきものをと考え、知恩院を菩提寺とし備えたのだという。

04山門mid
知恩院は、もともとは勢至堂や法然上人の廟堂がある上段だけだったものを、御影堂や大方丈などの堂宇がある中段と、三門や塔頭などが並ぶ下段とを徳川幕府が造り、いざという時の要塞となる菩提寺としたのである。
三門の上に上ると御所は一望のもとに眺められ、知恩院が監視と防御の役割を果たしていたことが窺えるのである。