祇園の円山公園音楽堂の西、高台寺の北に、ひときわ目立った閣が見えるのだが、これが昭和3年(1928)に大倉喜八郎が造った別邸「真葛荘」の一部であった「祇園閣」である。大雲院は、天正15年(1587)正親町天皇の勅命で、織田信長、信忠の菩提を弔うために、貞 ...

禁門の変と鳥羽伏見の戦いを於え、再び「京都検定をめぐる」に戻ることにしよう。花園の双ケ丘の東に、広大な寺域を持つ「妙心寺」がある。京都駅から妙心寺には、市バス26系統に乗り「妙心寺北門前」で降り、北門から入るか、JR嵯峨野線で「花園」で降り、5分ほど歩い ...

淀の辺りは、鳥羽伏見から撤退した幕府軍が薩長軍を迎え撃った激戦地であり、多くの幕府軍兵士が戦死をするのだが、錦の御旗に逆らった賊軍となり、遺体は葬られることもなく、戦場に遺棄されたままであったのを、淀の住民が葬ったのである。時は過ぎ、明治40年(1907 ...

鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組と幕府軍は、千両松や納所(のうそ)でも敗れ、態勢をたて直そうと淀城に向かうのだが・・・淀城が築かれた淀は、大坂から京に入る街道の地で、桂川・宇治川と木津川の三つの川が合流する要衝の地であった。淀城は戦国時代に細川管領家がこの地 ...

納所(のうそ)の交差点から千本通を北に、五番ノ橋を渡ると「妙教寺」がある。千本通が始まる納所町の一帯は、鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組や幕府軍が退却をし、それを追った薩長軍との間で、激しい戦いが繰り広げられた所である。妙教寺もまた、その戦いに巻き込まれ被災 ...

千両松の戦いで敗れた幕府軍は、淀城へと向かうのだが・・・淀城の城主はときの老中稲葉正邦の居城であり、幕府軍はこの城に入城し抗戦を続ける目論見であったのだが、正邦の留守を預かる淀藩家老らは、幕府軍に対して門を閉ざしたまま開けることはなかったのである。幕府軍 ...

納所川に架かる五番ノ橋を渡り古淀城薬師堂跡を訪ねようと、東に道をとる途中、納所会館の敷地内に「戊辰役戦場址」と刻まれた石碑が建っていた。淀・納所一帯は、鳥羽伏見で幕府軍と薩長軍との先端が開かれ、幕府軍が負け戦となり、淀まで退いて体制を立て直し、進んでくる ...

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