高知市上町2丁目の交差点を南に1分ほど歩いた東側の歩道に「近藤長次郎邸跡」の石碑が建っている。
碑文によれば、坂本龍馬に兄事し、亀山社中に投じ薩長連合に関わるも、単独での海外渡航を企て社規に反したと、享年29才で自刃したとある。
その「近藤長次郎邸跡」である。
龍馬の生まれた家とも近く、龍馬の3年後にこの地で生まれている。

01長次郎邸(1)min
近藤長次郎は、上町本町筋二丁目の饅頭屋・大里屋伝次の長男として、天保9年(1838)3月7日にこの地で生まれている。
小さい頃は饅頭を売り歩き、苗字はなく「饅頭屋長次郎」と呼ばれていたという。
その後、土佐藩主山内容堂に認められ、士分として苗字帯刀を許されるようになる。
龍馬とは家も近く、歳も3つしか離れていなく、小さい頃から仲が良く長じても龍馬と行動を共にするのである。

02長次郎邸(2)min
勝海舟が起こした「神戸海軍操総練所」に入り、龍馬と共に長崎で「亀山社中」を起こし、社中は長次郎なくしては成り立たぬとまで言わしめている。
しかし、狭い日本に住み飽きたのか、広い世界を見聞しようとイギリスに密航を企てるも発覚し、長州からの報奨金を受け取ったことも災いし、
亀山社中の「およそ事は大小の区別なく、社中に相談してこれを行う。もし自分一人の利益のため、この盟約に背く者があれば、割腹してその罪を謝する。」盟約を破ったことになり、
亀山社中の隊士より切腹を強要され、龍馬不在のなかで切腹をしている。
弱冠29才の若さであった。
後に、龍馬がこれを知り、「己がおったら、殺しゃあせんじゃった」と、その死を嘆いたという。
その近藤長次郎が生まれたのが、この地にあった餅菓子屋である。
因みに、長次郎の墓は長崎の寺町にある、晧台寺(こうだいじ)の小曽根家の墓所に祀られている。