「右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)」の「右文」とは学問とを重んじることで、「尚武」とは武道を重んじることで、いわゆる「文武両道」を重んじる言葉である。

何故この碑がここにあるのかと云うと、この地は、千葉周作がここに玄武館を開いて、北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政4年東條一堂が瑶池塾を開いて諸生に儒学と詩文を享受した所なのである。

01千桜小学校min

旧千桜小学校のあった所である。

江戸時代、お玉ケ池と呼ばれたこの辺りは、学問と武芸が盛んであった。明治を迎え、明治6年(1873)10月に桜池小学校が創られたが、明治14年(1881)に、近くの千代田小学校(明治10年3月開校)とともに、大火により焼失してしまう。

翌、明治15年(1882)10月18日に両校を統一し、桜池学校のあったこの地に「千桜小学校」が開校する。

昭和56年(1981)には創立100周年を迎えるが、児童数の減少から、平成5年(1993)に、神田小学校と統合となり廃校となる。校舎は取り壊され、学校名の無くなった校門の中に「右文尚武」の碑が建っている。


02碑文(1)min

右文尚武の碑文には、

東條一堂先生瑶池塾の址

東條一堂先生は、江戸時代の漢学の大家で、安永7年11月7日、千葉県茂原市八幡原に生まれた。
名は弘といひ、一堂はその號である。はじめ皆川淇園、亀田鵬齊等に従って業を受けたが、学成って後、神田お玉が池に瑶池塾を開いた。
その塾は市橋
主殿頭の邸と千葉周作の玄武館の間に在り、今の千櫻小学校の地に當っている。
この両先生は親交があり、自然門人同志も互に相往来して文武の道に励んだ。先生は老中阿部正弘を始め、盛岡庄内等の各藩公に召されたが、往還常に輿を以て送迎されたので、世に輿儒者の称があった。
天性勤王の志篤く、かつ気節に富んでいたので、弟子三千余人の中には、清河八郎、桃井儀八、鳥山新三郎等、幾多の志士が輩出した。
安政4年7月13日没。享年八十。墓は葛飾区掘和町妙源寺に在る。先生の学は漢宋新古の註を排した。
先秦の古学であり、自らは常に焚書以上の人と称した。詩文を善くし、又、書にも巧みであった。
著書百二十部、その中でも四書知言五辯等が最も有名である。』


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千葉周作先生玄武館の址

『千葉周作先生は、幕末に於ける剣道の達人で、寛政6年正月元日、宮城県栗原郡花山村に生まれた。
幼時、父幸右衛門に北辰夢想流の剣法を学んだが後、松戸の住人、浅利又七郎義信の門に入って、小野派一刀流を修め、更にその師、中西忠兵衛に従って秘術を授かり、心気力、三者一致の妙諦を悟るに至った。
ここに夢想流と一刀流とを取捨折衷して最も実用に適する組型を創定し、これを北辰一刀流と称した。
玄武館を神田お玉が池に開き、桃井春蔵、斎藤弥九郎の塾と名を齊しくし、江戸の三大道場といわれた。
後に水戸藩主徳川齊昭・慶篤の二公に仕えたが、期する所は人材の養成にあった。
弟子数千人、中には海保帆平、櫻田良佑、庄司辨吉等、知名の剣客があり、また坂本龍馬、清河八郎等の勤王家も輩出した。
安政2年12月10日病没、享年六十二。墓は豊島区巣鴨本妙寺に在る。
先生人となり剛毅、風貌魁梧、身長六尺に及び眼光炯々として人を射犯すべからざる威厳があった。』